平成28年度11月5~9日
インドネシア、マルガ英雄墓地にてインドネシア独立戦争における戦没者の慰霊祭が行われた。
日本からは30名程の有志が集い、現日本国総領事の千葉広久氏をはじめ、
現地で暮らす日本人の方々や現地のインドネシア人など100名程での式典となりました。
その後、英雄墓地に桜の植樹もさせていただき、バリ島の父と言われる三浦譲翁に墓参させていただきました。
三浦譲翁の遺言
吾々は今まで絶えず諸君に日本精神を、武士道を、或いは犠牲的精神を説き、君国の為には喜んで死ぬ事、 インドネシア独立の基礎は諸君の犠牲の血であり骨であらねばならぬ事を強調してきた。
更に日本人の断言せる事は必ず断行するという事実を諸君の前に示すことは三年有半育成せられたる諸君の覚醒せる精神に更に一段の向上進歩を遂げしむる最後の教訓である事を私は信ずる者である。
今私は穢れたる肉体をかなぐり捨て清き正しき憐憫(れんびん)と感謝に満つる霊魂になりてバリ島に止まり吾が敬愛し親交せる百三十万同胞の繁栄と幸福とを永遠に祈り念ぜんとする者である。
諸君よ左様なら。
皇紀二千六百五年九月七日午前六時
バリ島百三十万兄弟諸君へ
三浦 襄
大東亜戦争中、日本軍はわずか10日でインドネシア全域を制圧し、330年続いたオランダの植民地支配を終結させました。
終戦までに日本軍はインドネシア人による軍隊の育成、法制度や教育体制の整備などを行いました。
日本の敗戦から2日後の昭和20年8月17日初代大統領スカルノが独立を宣言、ところが翌月に独立宣言を無視し、 オランダはイギリス軍とともにスラバヤに上陸、しかし日本軍に訓練された民衆軍に強襲されイギリスの師団が全滅させられます。
ここで旧日本軍も戦闘に参加し命を落とされました。
1963年になり、当時のインドネシア外相アブドルガニー氏は、「植民地主義と戦うには力が無いと勝てない。
つまり軍事能力、これを戦時中日本が与えてくれたお陰で我々は独立する事ができた」と述べています。
この度、インドネシアの方々から直接お話を聞かせていただき、日本に対して感謝や尊敬の言葉をいただきました。
本当にマルガ英雄墓地も美しく整備されており、現地の方々も11名の旧日本軍の英霊にいつも手を合わせてくださってる事も目の当たりにしました。
本当に日本人として、誇らしい先輩達の犠牲の上に日本の平和と幸福があることを強く感じました。
日本陸軍、上遠野勇吉憲兵曹長とカムリ青年の話も参照下さい。
日本陸軍、上遠野勇吉憲兵曹長とカムリ青年の話
日露戦争に勝利し、アジアの輝ける国として、同じアジアの人々に勇気と誇りを与えました。
330年の長きにわたりオランダの植民地となっていたインドネシアの人々もそうでした。
バリ島近くマドラ島出身のラデン・アブドル・カムリ青年も日本に憧れ、大東亜戦争における日本軍の進駐に際しては、志願して現地憲兵補に採用されました。
その後日本の軍人達とは「死なばもろとも」と誓い合う関係にまでなったといいます。
日本軍は勇猛果敢に戦い、オランダの300年以上にわたるインドネシア圧政を解放しました。
しかし日本の戦況は悪化し連合国の圧倒的物量の前に敗戦を余儀なくされる事になります。
敗戦後、カムリ青年は「どうしても日本に行きたい、日本に連れて帰ってほしい」と、兄と慕う上遠野曹長に直訴します。 しかし軍紀はそれを許しません。
上遠野曹長はカムリ青年に一軒の家と車を買い与え、昭和20年8月24日には別れの夕食を共にしました。
しかしカムリ青年は翌25日早朝、次のような遺書を残し拳銃で自決します。
「私は日本の勝利とインドネシアの独立、マドラ防衛の為、決死の覚悟で日本軍とともに戦ってきました。
日本軍のおかげでインドネシアはみずからの力を知る事ができました。インドネシアは必ず独立します。
私は日本軍の指導に対し全インドネシアの青年を代表し、血を捧げて御礼を申し上げます。
大日本帝国万歳、インドネシア独立万歳」
カムリ青年たった20年の生涯でした。
日本軍はその日の午後厳粛かつ盛大にカムリ青年の葬儀を執り行い、墓前には毎日、花を供えました。
8月28日、カムリ青年の墓前で上遠野曹長の遺体が発見されます。
カムリ青年と同じ拳銃自決でした。
鉛筆で走り書きされた遺書には、こう記されています。
「皆様、大変お世話になりました。 カムリが可哀想なので一緒にいきます。 死体はカムリのそばに埋めて下さい」
支配や搾取ではなく、東亜解放の悲願実現の為、 ともに戦った日本とインドネシアの友情は偉大な二人の先人とともに永遠であらしめたいと願います。